「途中でつまずいて他の本に寄り道する必要のない教科書」をモットーに掲げ、大学レベルの物理学に関する解説をを20年近く提供し続けているwebサイト「EMANの物理学(http://eman-physics.net/)」。物理数学、電磁気学から量子力学や相対性理論にいたるまで、物理学の多くの分野を網羅するこのサイトは、ある個人によって運営されています。サイト運営および物理学関連の書籍執筆もしている広江克彦さんの頭の中に、「EMAN」の一読者である筆者が迫りました。

ーー私は現在、理系の大学院生をしているのですが、「EMANの物理学」には高校時代から今もお世話になっています。研究や勉強を進めるなかで物理や数学の基礎的なことでつまずくたびに、このサイトに立ち返って自分の理解を確かめています。広江さんは現在、どのような生活を送られているのでしょうか

 

ありがとうございます。EMANを立ち上げてからまだ年数の浅いうちに見てくれていた人たちも、今や大人になっているんですよね(笑)。今、私は福井県に住んでいます。物理学の解説サイトや本の執筆をしながら、兼業農家として米や大豆、蕎麦などを育てています。

ーーどのような学問的バックグラウンドをお持ちですか?

大学と大学院では物理学を専攻していて、当時ホットだった常温核融合を研究していました。それから、若い頃から夢を語るのが好きで、どうにかして物理法則の穴をついて反重力装置を実現できないものかと夢見て、友人たちとよく議論したものです。

わかりやすい教科書が欲しかったから、自分で作ることにした

ーーもう20年近くサイトで執筆を続けていらっしゃるようですが、どのような経緯で「初学者にも理解しやすい」解説を書くようになったのでしょうか?

最初にインターネット上で解説を公開し始めたのは1999年あたり、インターネットが普及して、個人でwebページを作るのが流行り始めた頃でした。テキストサイト全盛期で、当時は日記や個人のとりとめのない意見などを書き連ねているサイトが多かったですね。そのとき26,7歳だった私は『どうせなら、なにか変わったことをしてみよう』と思い、昔から好きだった物理学の解説を公開するようになったんです。私が学生の頃は物理のわかりやすい本もあまりなくて苦労しましたから、自分が若い頃に『こんな解説があればよかった!』と思えるものを今書いています。

ーー執筆をするにあたって、影響を受けたと感じる人やものはありますか?


広江さんの「わかりやすく書くこと」の原点、長沼伸一郎著『物理数学の直観的方法』。物理数学の難所と呼ばれる概念が解説されている。

『物理数学の直観的方法』という本の執筆者である、長沼伸一郎という人に影響を受けました。彼も私と同様に、アカデミアの世界を出て、この本の初版を自費出版しました。後にその初版が非常に高い評価を受けて有名になり、現在はブルーバックスという講談社のシリーズから出版されています。『教科書を分かりやすく書く』という私の原点がその本にあります。内容ももちろんですが、まえがきやあとがきに見られる彼の思想もとても面白いんですよ。

ゲームを作っていたことも大きいかもしれません。私は一時期歴史に関するコンピューターゲームを作っていて、その資料として科学史をずっと図書館で調べていた時期がありました。それまでは科学の歴史的背景を軽視していた向きがあったのですが、調べているうちにその重要さに気づいてのめり込んでしまって。今では当時調べて残した資料を、サイトの記事で各章の冒頭に導入として使っています。その分野が発展した歴史的経緯を書くときなどにとても役に立っています。


熱力学のカテゴリでは導入として蒸気機関の歴史に触れるなど、科学史のエピソードを取り入れている

人に何かを教えることはとても楽しい

ーー執筆は現在どのようなスタイルでなさっているのでしょうか?

サイトを立ち上げた当初は会社に勤めながら時間を作って更新していたのですが、今は仕事を辞めて、サイトと書籍の執筆に絞っています。ほとんどいつも部屋の中で調べ物や考え事をしながら執筆して、たまに散歩をしたり農作業をしたり。若かったからかもしれませんが、会社勤め時代の方が執筆に勢いはあったかもしれませんね。仕事中にずっと物理の計算を考えては記憶しておいて、家に帰ってバーっと文章にしたり。

ーー生活の様子だけ伺うと研究者のような印象を受ける反面、すでに完成された領域に対しいかに良質な解説を与えるかを常に考えられているところから、教育者寄りの視点も持っていらっしゃるように感じました。ご自身では今の執筆活動について、教育と研究、どちらのスタンスに立っているとお考えですか?

確実に教育側だと思います。大学に属しているわけではないので、研究するほど最先端のことに手を出しているわけではありませんからね。もともと人に何かを教えることがとても楽しくて、好きなんです。ときどき近所の子どもに勉強を教えたりもしています。

ーー読者からの反応で嬉しかったものや、逆に心が折れそうになるものは今までにありましたか?

webページを作った当時から、解説を高く評価してくれるメールなどが多方面から送られてきました。始めた当初、同じようなコンセプトのサイトはほとんどありませんでしたし、そういうときは素直に嬉しかったですね。企業の管理職に就いている人が、仕事上で必要な知識を身につけるためにサイトを読んで質問をしてくることもありました。コンサル的な仕事でやっているわけではありませんが、そうした人々の相談に乗って問題解決につながったこともありました。

心が折れそうになったことといえば、昔は学生たちの間で『EMANの物理学を読んでいるのは恥ずかしいこと』というような空気を感じていたことです。当時の教科書や参考書には分かりやすく書かれたものがなくて、『難しいものを自分の頭で理解してこそ一人前』のような風潮があったんですよね。だから、実は私のサイトを読んでいるんだけれど、仲間内ではそれを黙っているというような状況があったのかもしれません。

後編に続く)

EMANの物理学 http://eman-physics.net/